2014年10月3日金曜日

二元論について(1)

と、まあ、最近ネタがないもので、二元論について。


前にチラリと触れた、『異端カタリ派と転生』(原田武・絶版)からダラダラと引用。



第一章 現世という牢獄・グノーシス主義について

グノーシス主義とは何か

 荒井献氏によれば(『原始キリスト教とグノーシス主義』)、 歴史上のグノーシス主義は、おそらくエジプトで、これまででいわれてきたのに反してキリスト教とは無関係に成立したとみなすのが正しい。それはプラトニズム、ユダヤ教、それにペルシアの宗教の、相互の出会いのなかで形づくられ、やがてキリスト教とも接触するなかで、より異教に近い流派、よりキリスト教を取り入れる流派など、以後三世紀ごろまで、地域と分派によってずいぶん異なる多くの教説を生んでいく。

 しかし、ひとしくグノーシス主義と呼ばれる以上、これら歴史現象を結んで一定の共通した原理的側面がなければならない。荒井氏はこれを「原グノーシス主義」と呼び、その実存理解は次の三点にまとめることができるという。

 (1) 反宇宙的 (反現世的) 二元論。つまり、 地上における人間の現実は、非本来的な倒錯状況にあるということ。人間は本来的な自己から切り離されて「迷い」の支配下で「無知」「忘却」「酔い」「眠り」のなかにあるのだ。そして、重要なことだが、このようなものとして現世を作った創造者は、究極的な至高者(いわば 「神」) とはっきり区別され、 両者はむしろ敵対関係に立つ。グノーシス主義は、非本来的自己と本来的自己とを分ける点でも、物質ないし感覚次元と霊的次元を区別し、物質世界の創造者と天上の霊的世界の主宰者を対立させる点でも、二元論そのものである。    

 (2)救済手段としての、至高者と人間の本来的自己との本質的な同質性の認識。 地上に遺棄されてはいても、人間は「無知」から醒め救済にいたることができる。それは「闇」である肉的身体の根底には「光」である本来的自己すなわち霊的本性が宿り、これは霊的世界の至高者と本質において同一であるからだ。こうした同一性の認識(グノーシス)こそが救済を保証し、創造者の支配のもとで無知に沈んだ人間を光の世に連れ戻すことができる。つまりグノーシス主義では、人間の本性は神と同質であるから、自分を知ることで神を知りうるのである。

 (3)グノーシスの啓示者、 または人間の魂の救済者の存在。グノーシス主義において、通常の状態での人間は「無知」なのであるから、人間には本来的自己があるのだということを自分で悟ることはできない。また人間は、霊そのものにほかならない、見失われた本来的自己を、自分だけの力で再発見することもできない。したがって、人間がその「自己」を非本来的自己のなかに発見し、そこから救済されるために、啓示者、救済者が、外部から要請されざるをえない。キリスト教的グノーシス主義において、この啓示者にして救済者は、当然イエス・キリストである。

 要するにグノーシス主義とは、シモーヌ・ペトルマンのいうように、この世を正当化し、この世を善と結合することの拒否から成り立つ。グノーシス主義においては、神は不完全な地上のはるか彼方にいる。これは神から世界創造の責任を免除する思想であって、グノーシス主義はこの世に関する限り無神論である。「そこで崇拝される神は、この世から遠ざかった神である。そしてこの世は神なしに発展している。この世は孤独である。」 (『二元論の復権』)。

 荒井氏によれば、このような「グノーシス的『現存在の姿勢』または『精神の姿勢』は、いつ、どこででも、お互いに史的関係がなくても、自己を主張できる一つの実存理解である」。 グノーシス主義がよって立つ実存理解は、歴史上のグノーシス主義とは無関係に世界のあちこちで見出され、ギリシアの「プラトニズムとオルフィズム (及びピュタゴラス派)』と並んで、中世ヨーロッパにおいても「パウリキアヌス派、ボゴミル派、カタリ派」などのなかに確認できるのである。 シモーヌ・ペトルマンはまた、友人シモーヌ ・ヴェイユの伝記書のなかでいった。「カタリ派とグノーシス主義との関係は、歴史的なつながりの点では多分ありそうだとしかいえないが、思想の類似という点では確実にあるといえる」。


(続く)

0 件のコメント: